明日がくるということ
むかしから「明日がくる」というのが嫌でした。
明日もまた同じような苦しい日になると思うと寝たくなくなってしまうんですね。
小学校でいじめにあっていて、やっと卒業できてよかったーと思っても同じ小学校のメンバーもそのまま中学にあがるわけなので、そんなに変わりありませんでした。
自分でもなんでこんな行動とってしまうんだろうという行動をしていたし、あえてグループに入ろうとしていなかったように思います。
それでも親友ができたのですが、その友達も喘息がひどく不登校になってしまいました。友達もいたのはいたけど、学校生活が楽しくなくて、ある時行きたくないと休んでから行けなくなってしまいました。
不登校は本当につらかったです。家で好きなことができるかといえばそんなことはありません。
昼夜逆転のせいで体がだるいし、意欲もなく、学校に行こうとしても行けない。常に死にたいと思っていました。
すでに発達の特性が出ていたんだと思います。忘れ物、遅刻、よくしていました。この頃から失敗を極端に恐れていました。間違えるということにとても恐怖心があった。
トラウマがあるからなのか、発達の特性なのかわかりませんが、人に笑われたりしたこともあったので笑われたくない、恥ずかしい思いをしたくないという気持ちが強かったのだろうと思います。
明日がくるということは私の中では今日と同じ苦しみがずっと続くということでもありました。
社交不安障害
高校は寮だったため生活リズムを強制的に整えることになるのですが、それでも環境が変わると元に戻ってしまいます。
大学生の頃は夜遅くまで電話したり遊んだり、楽しいキャンパスライフを送っていました。
しかし恋愛で裏切られることがあり、また大切な友人を傷つけることになってしまうというショックな出来事から、徐々に追い詰められていきました。自分を必要以上に責め、生きる気力をなくし、毎日大学に行くことが苦痛になっていきました。
あるとき、授業中に冷や汗が出てきて動悸がするようになりました。ディスカッションで自分の番が回ってきた時でした。
これが社交不安障害の始まりでした。
その後も、震えが出たり過度に緊張したりするようになり、発言をすることが苦痛でした。
時間配分が狂っていることもありました。
間に合うだろうと思って準備すると間に合わなくて授業に遅刻する、電車に乗り遅れるということが度々ありました。
これは今なら発達の特性だと理解できるのですが、当時は時間の感覚がおかしいということをまだ自覚できていませんでした。
なんとか卒業をすることができ、応募が多かった福祉関係の仕事に無事合格。
家を出たかった私は寮のあるところを選びました。
ハードな仕事で体を壊す
仕事をしていたときは生活リズムが狂っていました。
まず、朝勤務、昼勤務、夕方勤務、夜勤がありました。
利用者の方のお世話が主な仕事です。そこに各部屋の掃除、トイレ掃除、食事介助、お風呂介助、歯磨き介助やトイレ介助。。。全介助が必要な方の介護、おこづかい管理、薬管理、時々作業の支援、外出や通院、とにかくやることがありすぎて、頭の中で何時にこれをやって、これをしている間にあそこを片付けて。。。等マルチタスクをこなしていました。
今思うとよくこなせたなと思います・・・。
何かやってる最中に他のことをやらなければならないことを思いだしたらそちらに取り掛かり忘れていた、とか教えてもらった通りできなかったり(発達特性もあったと思う)オムツに関しては最初慣れなくて、つけ方がすごく汚かったようです^^;看護師さんが優しい方で、できるまで見守ってくださっていたのですが。
とにかく業務が多く、そのうえ、利用者さんの相手をしないといけないし、職員の会議や行事の準備等でへとへとでした。帰ってそのまま寝てしまうこともありました。
行事はマイクもって指導したりもありましたが、会議などでは緊張で震えが出るようになり毎回苦痛で仕方がありませんでした。親族さんともお話をしないといけない。コミュニケーションが苦手なのに、コミュニケーションの多い仕事を選んでしまっていました。
最初はすごくがんばっていたけど、また死にたいと思うようになり、行きたいライブや観たいアニメがあるからなんとかそれまでがんばろうと業務をこなしていました。辛くても利用者さんに癒されていたし、忙しかったことで業務に集中できたので続けられたのだと思います。
でもある時、何かがプツンときれたのか、自暴自棄になりお酒を飲んでしまい、親に迎えにきてもらう事態になりました。
友人が連絡こないからさみしいとメールくれたりしていたけど、すごく孤独で、自分に価値がない気がして、運転中にこのままつっこんでしまおうかな。。。という思いが頭をよぎったりしてかなり危険な状態でした。
心療内科へ
意を決して心療内科にいってみたはいいけど、予約がないと受付できないと言われてしまい、苦しくて苦しくてようやく1時間もかけて病院に行ったのにこんな扱いを受けるのか、、、とショックでした。
仕方なく予約をとり、通院することになりました。
主治医からはしばらくは病名も何も言われなかったのですが(軽いうつ病だとは言われていた気がします)職場でも主任や同じ棟の職員には軽いうつだとカミングアウトしました。
ありがたいことに理解を示してもらい、業務を減らしてもらったり、会議に出た後にすぐ帰ったりできる限りのことをしてもらえました。
横になっていると利用者さんが羽織をかけてくれたりして、利用者さんも心配してくれました。
うつ病と診断される
なんとか業務をこなしていたけど限界がきてしまい、主治医から「休んだほうがいい」と言われました。ドクターストップです。診断名は「うつ病」。
軽いうつだと思っていたけど、改めてうつ病とはっきり書かれると、ああ私はうつ病なんだ。。。とやはりショックを受けました。外に出た瞬間悔しくて泣いたのをよく覚えています。
3か月間という期間だったと思いますが、休養することになりました。
休養に入るととたんに何もできなくなっていきました。
・テレビが観られない
・音楽を聴く
・文字が読めない
・眠れない
・食べられない
・性欲がない
・お風呂に入れない
脳が刺激を受け付けなくなってしまっていたようです。
食欲がなく、体重が減りふらつくこともありました。お風呂はお湯から出たら過呼吸になり、出て体を拭かずに横になることもありました。(なぜかお風呂で色々なことを思い出す)寝たいのに眠れなかったことが1番つらかったです。ただただ横になっているだけで、まるで屍のようでした。
職場復帰するために治そうと思っていましたが戻ることはかなわず、退職し休養に専念しました。回復してきてから次の仕事も福祉関係で探しましたがどうしてもうつの症状が出てしまうので福祉は外すことに決めました。
それからアパレル、工場、事務作業と職を転々とすることになります。
昨年に発達障碍とわかり、うつ病の治療を開始
うつ病さえ治れば、、、と思い、回復して仕事をがんばり出すとまた調子が悪くなる。。。この繰り返しでした。
うつ病を言い訳にしていると自分に厳しくしている部分もありましたが、うつ病は発達障碍の二次障碍であるということをようやく知ることになりました。
うつになる前も生理痛や頭痛がひどく、社交不安障害や軽い強迫観念等、うつになる要因を持っていました。
いくらうつ病を治しても、うつ病の要因があれば再発してしまいます。
緊張してしまう社交不安がとにかく辛かったので、まずこれをなんとかしたいとあらゆるものを試しましたが改善することはありませんでした。場数を増やして慣れる、という間違った方向にいっていたし、もっと根本的な部分、人が怖いとかトラウマとか(退行催眠もすすまず断念)毒親問題にアプローチするべきでした。
2回目のうつ病になったことで、ようやくその問題と向き合う決意ができました。
自分を知ること
発達障碍の特性ということを知ることができたのは大きな一歩となりました。
自分一人でなんとか生きていかなくてはいけないと思っていましたが、発達の凹凸が極端なのでできないことはだれかの助けが必要だと思うようになりました。
発達障碍の特性については把握しきれていません。まだ特性に振り回されている状態です。
どうしても一般の人よりはハンデがあります。しかも毒親育ちはその経験が足をひっぱることが多いです。五体満足に見えるかもしれないですが、頭の中は不満足です。
早くから気づいて対処できていれば、違う人生を送っていたかもしれないと思うことがあります。
でも私の人生そんなに嫌いじゃないな~と思えるようになってます。むしろ発達の自分が好きかもしれないです。うつ病になる前の自分は大嫌いでした。自分のことを知ろうとせず、理解しようとせず、まわりになんとかしてほしいと助けを求めていただけでした。
今もできないことが沢山あるし、どう頑張っても一般の人と同じように考えたり生きることができません。苦しい思いを本当にたくさんたくさんしてきました。事実に打ちのめされ立ち尽くしてどうすればいいのかわかりませんでした。それでも今は少しずつ立ち向かえるようになってきているし、乗り越えたいと思えます。力が沸いてくるようになってきました。
2年でここまで進んだのは奇跡に近いです。支えてくれる人には本当に感謝しかないし、これから少しずつ恩返ししていきたいと思っています。
これからも地道にコツコツと取り組んでもっと自分のことを知って理解していきたいです。