前向きにがんばろうとしているのだけど、どこかで絶望してしている自分がいる。
散々な人生だったことから希望をもてないし、定型発達の人よりもハンディが大きくて生きることに対してどうしても「楽しむ」より「がんばって生きなければならない」が先にきてしまう。このご時世、先がどうなるか全く想像できない。
がんばらないと、私は何にもできないんだと思い込んでいる。
がんばっても、結局誰にも認めてもらえず成功するわけでもなく、ただ消費するだけの人生で終わってしまいそうな気になる。
それに抗って人生のやり直しをやり始めた。ただまわりに流され、自分を押し殺してまわりに合わせ、ため息ばかりでグチグチと文句を言い、気が付いたら年だけとって終わる人生なんて嫌だ。
後悔するような人生だけは歩みたくない。どうせ生きるのなら、やりきって、命を燃やしきりたい。そういう思いがずっとある。生きていてよかった、と心の底から思いたいのだと思う。
希死念慮は確かになくなった。それだけでもずっと生きやすくなった。
常にいなくなりたい、〇にたい、消えたいという思考が強迫観念のようにまとわりついていた。楽しいことがあってその時は楽しむのだけど、ふとした時にあー、生きるのがつらい、〇にたい、が出てくる。少しよくなって、人生楽しめると思った矢先に不幸が起こってまた落ちる。その繰り返しだった。
希死念慮が消えたのは、生きる力が少し戻ってきたからだと思う。でもよくなってくると次の壁にぶつかりそうでそれが怖い。上がって落ちての繰り返しだったので、同じようなことになるんじゃないかという不安が出てくる。体がそれを覚えているし反射的にそうなってしまうのは仕方がない。
私は何もできない、何も持っていない、何も生み出せない、という絶望感は人と比べているからだと思う。
たとえ何もできていなくても、何も生み出せなかったとしても、生きていてはいけないことはない。そういう人がいたら、私は生きてていいよ、と伝える。
その人が消えたいと思っていたらそっと寄り添う。消えないでとは言えないけど。
消えたい気持ちは痛いほどわかる。
私はずっと被害者だった。
嫌な出来事に対して、〇〇させられた、傷つけられた、と相手を責めたがっていたように思う。理不尽なことは本当にたくさんあるけど、みんなどこからしら割り切っている部分がある。だから水に流すことができるし、そうでもしないと先に進めない。
私はこのあたりに非常に執着しているような気がする。
理不尽なことも、こういうこともあると流すことが難しい。
だから過去のことをネチネチと覚えているんだと思う。
相手を責めているから、自分にも悪い部分があったことを見つめることができないし、自分は正しいとどこかで思っている。傷つけたあなたが悪い、と相手を断罪する。
怒られたら、怒られた理由よりも「怒られた」「怖かった」「傷ついた」が記憶として残ってしまう。
これは被害者意識である私の世界だ。別の見方をすれば違う視点があることに気づく。そして相手がどう考えてその行動に出たのかを知ることができる。なぜ怒ったのか、気分で怒ったのか、私のことを考えて厳しくしたのか、相手の心を理解することができる。
それが経験となっていく。
私は主観でしか物事を考えることができていなかった。だから被害者意識から抜け出すことができなかった。
たまに、些細なことでものすごく怒りが爆発しそうになる。
休養してゆっくり休んでいるつもりでも、過去の記憶がよみがえると芋づる式に嫌なことが引っ張り出される。悲しみと怒りも同時に出てきて、再び傷つく。自分で自分を傷つけてしまう。
こんな辛い人生にさせたこの世界が許せない。
理不尽な世界が許せない。
こんな風に思う自分も許せない。
それが「おまえなんか〇ねばいいのに」の原因でもあったと思う。
今は自分を責めても何にもならないことが理解できているので希死念慮はなくなった。
それでも絶望感だけは消えない。
マグマのような怒りを発散させることが大事なのかもしれない。
発散させるもの・・・音楽や絵を描くことでそれができるかはわからないけど、まずはやってみようと思う。ここもうまく活用していこうと思う。
この絶望感が少しでも和らいだら私の見えている世界が拡がっていることになる。
がんばるだけが人生じゃない、人生は楽しむものだ。
もっと肩の力を抜いてなんとかなるという気持ちで過ごしたい。